亭主の独り言 (1)  「大山桜を見て」

伊勢原で行われた会合で、隣り合った初対面の女性の名前が「○○多勢子」さんという。
どこかで聞いた名前だなぁ考えたら、思い出しました。島崎藤村著『夜明け前』を読んだ
時に出てきた女性勤皇家「松尾多勢子」と同じ名前でした。

 聞けば目の前の「多勢子さん」は信州伊那谷の出身だそうで、話によると多勢子さんの
母親が文学少女で、郷土の文化人の松尾多勢子の名をわが子につけたそうな。

 おぉなんという奇遇だ。明治初年、大山阿夫神社を大変革した、初代宮司、権田直助が
倒幕運動の最中、東海道は危険なため中仙道を利用し伊那谷にいた松尾多勢子の庇護を受
けていたのです。

 直助たちは倒幕尊王の旗印の下に身を粉にして働き明治維新を勝ち得ました。しかし、
ことが成就するや明治政府は欧風文化を取り入れ、国学者たちは地方に追いやられました。
中には直助の盟友、相良総三は偽官軍の汚名を着せられ処刑されました。多くの国学者た
ちが同じ末路に辿りました。権田直助は中央政府の重要な案件に関わった時期もありまし
たが最後は大山阿夫利神社の宮司に左遷されました。

 大山にとっては幸いな事になりました。直助は斯界を代表する大学者です。奈良春日大
社から大和舞、巫女舞など今に残る伝統文化、詩歌管弦を導入し、また神仏分離後の混乱
の整理等様々な功績を残しました。

 その直助が残した歌

 「思いきや 世に長らへて 咲きにほふ 花を涙のためにみむとは」

直助はさくらの花を見るたびに無念の思いで死んでいった仲間たちを想い涙を流したのです。
直助は執務室の裏山に桜を沢山植えました。

 「敷島の 大和心を 人問とはば 朝日に匂う やまさくら花(本居宣長)

この歌は大東亜戦争の折、戦意高揚に利用された歌ですが。本当は桜の花の散り際のあわれ
さを歌ったものです。

今、大山桜が満開です。桜は美しくて悲しい花です。
松尾多勢子は
82歳の長寿を全うし、皇后から正五位を送られ幸せのうちに没しました。


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